About
− 矢野 恒太 −
矢野恒太矢野恒太
矢野恒太は、第一生命の創業者。保険業法の起草に携わり、農商務省初代保険課長として生命保険業界の健全化に取り組むなど、生命保険業界の基礎を築いた人物としても知られ、2018年に金融庁が発表した「明治期に金融制度の確立等に貢献した人物」に選ばれている。
また、恒太の活動は生命保険分野に留まらず、結核撲滅に向けた取組みや「日本国勢図会」の著述活動など、幅広い分野で活躍した。
Key messagesKey messages
− 矢野恒太語録 #01
「信じたならばその信念を固く抱き、
確信をもって一生を貫け。」
この言葉の通り、恒太は自分の信じた道を突き進んだ。

医師の家に生まれた恒太は、社会勉強のつもりである保険会社に医師として入社する。
そのころ、保険会社の起業ブームがあり、不良会社の破綻なども起きていた。
そんな状況に疑問を抱いた恒太は医師の道を諦め、理想の保険会社を創ろうと決意する。
その後、欧州の保険会社への留学や農商務省時代を経て、明治35年、ついに自らの手で第一生命を設立した。
− 矢野恒太語録 #02
「最大たるより最良たれ」
恒太は分かりやすい「規模」ではなく、 時代とともに変化する「品質」を追い求め続けることが 社会からの信頼につながると考えていた。

後発の保険会社としてスタートした第一生命は「堅実経営」「お客さま重視」の姿勢が徐々に評価され、昭和7年には業界第2位に躍り出た。
当時の役員は「この機を逃さん」と業界首位を目指す営業方針を立てようとしたが、恒太は「業界順位を目的にすることは本位ではない」と諭した。
− 矢野恒太語録 #03
「世間の人が喜ぶか、
なくてもよいと思うかを考えよ」
恒太は「人が喜んでくれる仕事は、世間がその価値を認め大きく育ててくれる」と考え、新たな挑戦をする際にこの言葉を判断基準としていた。
この視点は、生命保険事業だけに留まらなかった。
恒太は当時の国⺠病だった「結核」の撲滅にも尽力し、北里柴三郎博士の監修を受けて「結核予防の心得」という冊子を発行した。 さらに、巨額の資金を投じて、結核療養施設を設立したが、 戦争の影響で結核治療の病院が不足すると、 設立したばかりのその施設を国に寄付している。
− 矢野恒太語録 #04
「無一文で生まれてきたのだから、
無一文で死ぬのが理想だ」
恒太は第一相互貯蓄銀行頭取、東京横浜電鉄社長など要職も務めたが、自ら地位を求めることはなく、在職25年の慰労金で家を建てるまでは借家住まいだった。
また、毎日のように宴席に顔を出し、人の話を聞きながら世の中の動きを把握し、自分の考えを披露して人脈や信用を広げたが、この際、会社の経費は一切使わなかった。
そのため家計は決して楽ではなく、この言葉のとおり清貧の生涯だった。
第一生命は、恒太の
「挑戦の精神」を受け継ぎ、
お客さまの「一生涯のパートナー」で
あり続けるために、
「最良」を追求し続けていきます。
PAGE TOP